2017年5月21日日曜日

第4話 萬代屋宗安(1)〜宗易との関わり

萬代屋の中で一番の有名人かもしれません。

萬代屋宗安に関しては文献もそこそこ残っているので、じっくり書いてみたいと想います。

ネットで検索してみると下記のように紹介されています。

万代屋宗安

安土桃山時代の茶人。堺の人。万代屋宗二の子、千利休の女婿。姓は渡辺、名は新太朗、別号に竹渓・一咄斎。利休門下で傑出し、豊臣秀吉の茶頭・御伽衆を務めた。利休没後は孫の千宗旦の庇護に努めた。文禄3年(1594)歿、享年未詳。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
万代屋宗安 もずや-そうあん
?-1594 織豊時代の茶人。堺の人。千利休の娘婿で,妻は一説に吟。豊臣秀吉につかえて茶頭(さどう)八人衆のひとりとなる。名物の抛頭巾(なげずきん)茶入,九重の茶壺,牧谿(もっけい)の布袋(ほてい)の絵などを所持した。文禄(ぶんろく)3年死去。姓は渡辺。通称は新太郎。号は竹渓。

朝日日本歴史人物事典の解説
万代屋宗安
没年:文禄3.4.24(1594.6.12)
生年:生年不詳安土桃山時代の堺の富商,茶湯者。千利休の女婿。姓は渡辺,通称新太郎。竹渓,一咄斎と号した。父は了二。妻の名は創作だが万代屋お吟として知られる。義兄弟の千道安,少庵,利休の甥の千紹二と共に利休の大徳寺三門金毛閣造営に尽力した。金毛閣は利休が自像を安置したことで知られる。道安の娘が子の宗貫と婚姻し,宗賢(高畠重右衛門)を設けた。経済都市堺の実力者であり,村田珠光伝来の投頭巾の茶入を秀吉に献上することで利休の助命を企図したが成功しなかった。博多の興隆に対する堺の凋落を象徴するといえる。好みの釜「万代屋釜」,所持の名物裂に「万代屋緞子」がある。堺の南宗寺に供養塔が存する。<参考文献>『堺市史』
世界大百科事典内の万代屋宗安の言及
【宗安小歌集】より
…他に伝本はなく,孤本である。1931年に笹野堅が《室町時代小歌集》と名づけて刊行紹介したが,編者の宗安が茶人万代屋(もずや)宗安であること,手書者三休が久我大納言敦通であることが考証され,本書の成立が1599年(慶長4)以後数年の間であると推定されるに及んで,書名の呼称も改められた。所収歌謡は主として男女の愛をうたった221首(うち2首重複),《閑吟集》と類歌関係にあるもの40首余りであるが,律調においてしだいに新しさを加え,同時代の《隆達小歌》(隆達節)とともに近世調への展開を跡づけている。…


知られているところでは利休の娘婿で、大茶人というところでしょうか。
萬代屋宗安の妻の吟は今東光の『お吟さま』という小説で有名になりましたよね。

この吟ですが、文献では萬代屋宗安後家という事になっていて、後に秀吉の横恋慕に利休が首をふらずに、切腹の一因になったということになっていますが、これはウソです。

宗安は、関ヶ原の戦いに参戦していますから、吟は当然後家になっていません。文献にも、宗安と共に堺・南宗寺に葬られているということになっています。

当時、戸籍制度も、一夫一婦制度も無いわけですから、宗安も吟の他にも何人もの妻がいたとしても不思議ではありません。

利休も、宝心妙樹のあと、宗恩を後妻にして、その事で道安がぐれたという話がありますが、宝心妙樹も、生きていた可能性もあります。

ま、千家関係の話は、またあとからじっくりやりましょう。

千家というのはそもそも無くて、正しくは斗斗屋、あるいは納屋。

苗字は田中。

ちなみに上記のとおりうちの苗字は渡辺です。

利休というのもこれは、いわゆる戒名で生前はほとんど使われていなかったという話ですから、ここでは斗斗屋宗易とお呼びすることにいたしましょう。

斗斗屋と萬代屋は、非常に緊密な関係で、

一説では宗易の父は萬代屋宗海と言っていたらしいです。

だだしこのことに関しては、著者のソースが解らないのではっきりしません。

前述のとおり、娘の吟は宗安の妻でした。

また、宗易の嫡子(実子)とされる道安の娘は宗安の子、宗貫に嫁いでいます。

これを見ても、斗斗屋と萬代屋がいかに緊密な関係をもっていたかが解ると想います。

斗斗屋というのは、魚屋の事ですが、前述のとおり、堺の魚は一般庶民の口には入らなかったわけですから、朝廷との繋がりを持って居たと考えてもおかしくないでしょう。

元々、萬代屋も魚を扱っていて、江戸末期まで萬代屋清兵衛も魚屋をやっていたということですから、いわば親戚にのれん分け、別会社を造ったという感じなのだと想います。

いわば、萬代屋の門閥の中のひとつ、ということでしょう。

とんちで有名な曽呂利新左衛門は刀の鞘を造っていたと言われていますが、この人も、萬代屋だと伝えられています。

堺で最も古いと言っても良い萬代屋が江戸末期の史料では3軒しかありません。

それは、萬代屋を名乗るうちを制限していたからだと考えられます。

また、宗易の嫡子につけた道安の名は、萬代屋の当主が代々名乗っていた名前です。

つまりは萬代屋と斗斗屋は一体の関係にあった、ということです。

現在の印象では、宗易>>宗安というイメージになっていますが、力関係は全く逆であったことは、下記の堺市史の史料からもわかります。


宗安に『公』という敬称をつけ、『まいる 机下』としています。

机下とは、本来は人を介さなければ接触できない人にあてる場合の文言だそうです。

斗斗屋と何故何度も姻戚関係を結んだのか?

それは、良く解りません。

ただ、当時は、同族の血を薄めないようにするという習慣は皇室だけでは無かったようで、おそらくは、斗斗屋と萬代屋は元から同族だったんでしょう。

千家というと、こないだ調査してきたのですが、千家は阿波(徳島)が発祥で、その屋号は塩屋というのだそうです。

それで道安の墓碑も塩屋の子孫の木戸家の墓地の中にあるのですが、萬代屋も塩屋でしたから、この点からもやはり同族なのでしょう。

また、一説では、萬代屋も『千』を名乗る場合があったそうで、『千』という姓に、何かの意味があるのかも知れないと考えています。

確か宗易の先妻は三好長慶の娘で、後妻は松永弾正の娘だったはずで、どちらも徳島勢ですよね。

今日はこのへんにしときます

(つづく)




2017年5月20日土曜日

第3話 萬代屋休意と石山本願寺

歴史上に登場する、萬代屋という屋号のついた初めの人物が萬代屋休意(仁左衛門)です。

萬代屋は当時(室町時代)、明国人相手の旅館をやっていたようです。

萬代屋の娘、木花(このはな)が宿泊者の堅氏と恋に落ち、子供を設けました。

この子供が、後に石山本願寺建立の中心となる樫木屋道顕です。

樫木屋の『樫』は父の姓『堅』からとったものだと言われています。

道顕は、自分の生い立ちを知り、その父が亡くなったことを知って、供養の為に一向宗に帰依します。

道顕は父を弔うため、堺に樫木屋道場を建設し、ここに蓮如を招きます。

(樫木屋道場は今も、本願寺堺別院として残っています)

その事が起こりとなって、樫木屋道顕、萬代屋休意(仁左衛門)、松田某によって石山御坊が建立されることになります。

松田某は休意・道顕の従兄弟で、石山御坊の土地を提供したという事です。

石山御坊は、後に石山本願寺となり、一向宗の拠点として寺内町を形成し、のちの大阪の元になったと言われています。

それが、まさに萬代屋一門の力によって造られたのです。

石山本願寺は、信長と10年戦って、最後には正親町天皇の和睦を頂いて、自ら火を放って消滅したとされています。(石山合戦

石山御坊が建設されたのが1496年ですが、その前の南北朝時代、『戦乱の中、高野山御影堂を独力で献納』と堺市史に記されています。

萬代屋一門がいかに信心ぶかい人達であったかが良く解る話だと想います。

また、『自ら火を掛けて町を焼き払う』という行為は堺においても行われました。

この理由に関しては、今後考察が必要だと考えています。

また、石山合戦における正親町天皇関わりです。

室町時代、『大山崎荏胡麻油事件』というのが起こります。

足利義満は自ら庇護していた大山崎の神人(じにん)に荏胡麻油の生産・販売を独占させようとします。

しかし、堺の荏胡麻油商人は、素知らぬ顔。

それまで通り、荏胡麻油の商売をしていたところ、大山崎の神人はやはり幕府に訴えます。

しかし、結局は正親町天皇の御言葉で、堺商人はそのまま同じように商いを続けられたということです。

その前も、南朝方に荷担したとのことで、室町幕府は堺・北荘の商売を禁止しようとしました。

これも、正親町天皇の和睦で、それまで通り・・・

いかに堺商人が力を持ち、天皇と深く繋がっていたかが解る史実です。

当時、堺の商人は、神社の支配下にある神人、藤原氏にものを納める供菜人など、日本の上層部と深くつながっていました。

また、堺の海は茅渟の海といって、一般の人々はその魚を食べることを禁じられ、皇族のみが食すことができるという事になっていたそうです。

萬代屋仁左衛門(休意)はなにをしていたか?というと史料の中では『塩商人』という事になっています。

その塩はどこに納めていたでしょうか?

塩は調味料というだけでなく、『清める』ためのものでもあります。

そう、住吉大社に納めていたんです。

萬代屋は開口神社(あぐちじんじゃ・おおでらさん)の神人。その開口神社は住吉大社の末社です。

神人というのは、神社の雑役をしたということになっていますが、堺の神人は、当時莫大な力を持っていた寺社勢力の金庫番的な役割をしていたんだろうと想います。

堺は『海の街』というイメージがあって、もちろん海産物の商売も盛んだったでしょうが、注目すべきは『丹南鋳物師』そしてそこから発展する『廻船鋳物師』です。

堺の丹南地区(今の堺市・金岡あたり)日本の鋳物・金属工業の発祥の地といって良く、先進的な農機具を開発することによって、農業生産も拡大していました。

今、金属工業が盛んな富山県高岡市に行くと『昔丹南、今高岡』と橋の欄干に刻んであった記憶があります。

その金属製品・農産物・海産物をもって、日本中を廻ったのが『廻船鋳物師』です。

堺の発展は、海側からではなく、今の百舌鳥から内陸側から、徐々に海側に移行していったのです。

百舌鳥地区を拠点とした萬代屋もそういった神人商人の一人であり、寺社勢力特に住吉大社・開口神社との繋がりを背景に莫大な経済力を発揮していたのです。


石山本願寺といい、堺といい、謎に包まれた部分が非常に多いのですが、これは、為政者(足利氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川氏)によって、自分の都合の良い歴史を書き残しているせいだと私は考えています。

藤原氏が土師氏の歴史を封じ込めてしまったのと同じように・・・

それを前提としないと、後に書く、萬代屋宗安をめぐる様々な歴史も解き明かせないと想ってます。

仁左衛門のあたりは非常に興味深い時代なんですが、細かいことは後々追記していくことにして、今日はこのへんで・・・








2017年5月18日木曜日

第2話 掃部助、常閑そして返魂丹

萬代(もず)を名乗る人が歴史上初めて登場するのが、返魂丹という薬の歴史に関してです。

室町時代、萬代家初代とされる萬代掃部助(もずかもんのすけ)は和泉国代官として大内氏に仕えていました。

ある日、堺浦で明国舟が難破したのを、掃部助が助けます。

その日、掃部助の夢枕に百舌鳥八幡宮の神様が出てこられて、

『明人から礼を受け取ってはいけない』

とのお告げを賜ります。

明人は、やはり『お礼を』と言いますが掃部助は断ります。

そして、その明人から秘薬の製法を伝授されます。

これが、延寿返魂丹のはじまりです。

掃部助は、これを機に返魂丹の製造に専心することになります。

そして、主計(3代)、常閑(8代)と受け継がれます。

その噂を聞いた岡山藩主池田忠雄に典医として迎えられることになります。

これが、今も続く、岡山・万代常閑家のはじめとなります。

(萬代常閑像:妙国寺)

岡山の万代常閑家は現在も医家として続いているそうです。

そして、岡山から富山へと伝わります。

その時の話は以下の様に伝えられています。

返魂丹と富山との関わりは次のように語られている。常閑が長崎へ旅した時のこと、懇意になった富山藩士日比野小兵衛が腹痛で難儀した際、常閑が与えた返魂丹で腹痛がおさまった。小兵衛は常閑からその製法を学び自ら用いていたが、藩主前田正甫(まさとし)が腹痛で苦しんだ時、これが効いたことから、正甫はこれを藩内の薬種屋松井屋源右衛門に命じて製造、販売させることにした。その効き目は顕著で評判となり、正甫は松井屋源右衛門に命じて広く諸国へ売り広めるよう命じ、源右衛門の手代源兵衛が諸国へ販売することになった。これが越中売薬の始まりであるという。


この返魂丹がもととなって、富山の薬売りが始まるのです。

富山では売薬さんが帰ってくる毎年6月に常閑をまつるお祭りをされるそうです。


富山妙国寺には以下の様な感じです(私が撮った写真です)







2017年5月15日月曜日

第1話 萬代(万代)姓の起こり

時系列に沿ってまとめてから書こうと想っていたら、日にちが経って、このままでは全く書けないで終わるという最悪の事態になりかねませんので、見切り発車でコラム的に書いていく事にします。


まず、第1話として『萬代(万代)』という姓の起こりについてです。

二つずつ書くのもめんどくさいので、申し訳ないですが萬代で統一させていただくことにします。

萬代、万代とあって、読み方もマンダイ、バンダイ、他にもあるようなのですが、全部先祖は一つです。

堺の萬代と万代は、百舌鳥八幡宮内にある萬代寺のご住職に聞いた話では、明治になったときに、二つに分かれたんだとか。

分かれたというか、昔の文献をみても、両方使っている様ですから、どっちでもええわ位の感じだったのかもしれません。

いずれにしても、元は同じです。

萬代一族の元は土師(はじ・はぜ)氏です。

土師氏は、天穂日命14世とされる野見宿禰を始祖とします。

垂仁天皇の命により、當麻蹴速と相撲をとって勝ち、葛城一帯の土地をさずかりました。

また、それまで天皇陵造営の時に、人間が生け贄になっていたことを改め、埴輪を用いる事を提言したのも野見宿禰です。

これにより、垂仁天皇より土師連を授かります。

これが土師氏の始まりです。

その後、土師氏は古墳造営と天皇家の葬祭を司る一門となります。

仁徳、応神、仲哀などの大古墳はすべて土師氏によって造られたものです。

しかし、大古墳時代が終わり、仏教の思想が広がるにつれ、

天皇の葬祭=気枯となり、土師氏の権勢は次第に衰えていきます。

そこで、土師氏は天皇に改姓を申し入れます。

その理由は

『葬祭以外にもいろんな仕事をしているんですから』

と言う事であったと文献にも残っています。

事実、古墳の造営、天皇の葬祭以外に大きな仕事として軍事にも携わっていたようです。

古墳の造営といえば、当時は全部力仕事。

屈強な男達を多数集められるといえば、土師氏以外無かったのでしょう。

豊かな財力も力として、土師氏は4つの姓に分かれます。

菅原、秋篠、大江(大枝)そして萬代(もず)と分かれました。

8世紀ころの話です。

菅原、秋篠は大和側、大江(大枝)は河内側ですので、萬代は大江から別れたという説もあるようです。

この4氏を指して、土師の四腹(はぜのよつばら)というそうです。

萬代は土師氏の中でも萬代(もず)=百舌鳥地区に住んで居た人達で、ずばり仁徳天皇陵の造営・維持に関わっていた人達です。


桓武天皇の母は高野新笠という人ですが、その母は土師真妹です。

その土師真妹は土師氏の中でも萬代腹(もずばら)の出身だそうです。

長岡京には物集女(もずめ)という土地があるそうですが、桓武天皇の遷都と共に移住した萬代一族なんでしょうね。

『もず』は萬代、万代だけでなく、物集、毛受などとも書かれたようです。

毛受さんはいまは『めんじゅ』さんとお読みするそうですから、うちがマンダイになったのと同じ事ですね。

堺の歴史で萬代家が初めて登場するのは、室町時代の萬代掃部助(もずかもんのすけ)ですが、出雲地方にも古くからあるので、そのあたりの歴史も調査が必要です。

堺・出雲の他、萬代姓を名乗るのは、岡山県、山口県に多い様です。

岡山に多いのはまた別に書きますが萬代常閑が移住したためです。

山口県では、維新の志士をサポートした十朋亭の主、萬代利平が有名ですね。

中国地方に多いのは、出雲の事もありますが、大内義弘と深い関わりをもっていたことも大きく影響していると想われます。