歴史上に登場する、萬代屋という屋号のついた初めの人物が
萬代屋休意(仁左衛門)です。
萬代屋は当時(室町時代)、明国人相手の旅館をやっていたようです。
萬代屋の娘、木花(このはな)が宿泊者の堅氏と恋に落ち、子供を設けました。
この子供が、後に石山本願寺建立の中心となる
樫木屋道顕です。
樫木屋の『樫』は父の姓『堅』からとったものだと言われています。
道顕は、自分の生い立ちを知り、その父が亡くなったことを知って、供養の為に一向宗に帰依します。
道顕は父を弔うため、堺に
樫木屋道場を建設し、ここに
蓮如を招きます。
(樫木屋道場は今も、本願寺堺別院として残っています)
その事が起こりとなって、
樫木屋道顕、萬代屋休意(仁左衛門)、松田某によって石山御坊が建立されることになります。
松田某は休意・道顕の従兄弟で、石山御坊の土地を提供したという事です。
石山御坊は、後に石山本願寺となり、一向宗の拠点として寺内町を形成し、のちの大阪の元になったと言われています。
それが、まさに萬代屋一門の力によって造られたのです。
石山本願寺は、信長と10年戦って、最後には正親町天皇の和睦を頂いて、自ら火を放って消滅したとされています。(
石山合戦)
石山御坊が建設されたのが1496年ですが、その前の南北朝時代、『
戦乱の中、高野山御影堂を独力で献納』と堺市史に記されています。
萬代屋一門がいかに信心ぶかい人達であったかが良く解る話だと想います。
また、『自ら火を掛けて町を焼き払う』という行為は堺においても行われました。
この理由に関しては、今後考察が必要だと考えています。
また、石山合戦における正親町天皇関わりです。
室町時代、『
大山崎荏胡麻油事件』というのが起こります。
足利義満は自ら庇護していた大山崎の神人(じにん)に荏胡麻油の生産・販売を独占させようとします。
しかし、堺の荏胡麻油商人は、素知らぬ顔。
それまで通り、荏胡麻油の商売をしていたところ、大山崎の神人はやはり幕府に訴えます。
しかし、結局は正親町天皇の御言葉で、堺商人はそのまま同じように商いを続けられたということです。
その前も、南朝方に荷担したとのことで、室町幕府は堺・北荘の商売を禁止しようとしました。
これも、正親町天皇の和睦で、それまで通り・・・
いかに堺商人が力を持ち、天皇と深く繋がっていたかが解る史実です。
当時、堺の商人は、神社の支配下にある神人、藤原氏にものを納める供菜人など、日本の上層部と深くつながっていました。
また、堺の海は茅渟の海といって、一般の人々はその魚を食べることを禁じられ、皇族のみが食すことができるという事になっていたそうです。
萬代屋仁左衛門(休意)はなにをしていたか?というと史料の中では『塩商人』という事になっています。
その塩はどこに納めていたでしょうか?
塩は調味料というだけでなく、『清める』ためのものでもあります。
そう、
住吉大社に納めていたんです。
萬代屋は
開口神社(あぐちじんじゃ・おおでらさん)の神人。その開口神社は住吉大社の末社です。
神人というのは、神社の雑役をしたということになっていますが、堺の神人は、当時莫大な力を持っていた寺社勢力の金庫番的な役割をしていたんだろうと想います。
堺は『海の街』というイメージがあって、もちろん海産物の商売も盛んだったでしょうが、注目すべきは『丹南鋳物師』そしてそこから発展する『廻船鋳物師』です。
堺の丹南地区(今の堺市・金岡あたり)日本の鋳物・金属工業の発祥の地といって良く、先進的な農機具を開発することによって、農業生産も拡大していました。
今、金属工業が盛んな富山県高岡市に行くと『昔丹南、今高岡』と橋の欄干に刻んであった記憶があります。
その金属製品・農産物・海産物をもって、日本中を廻ったのが『
廻船鋳物師』です。
堺の発展は、海側からではなく、今の百舌鳥から内陸側から、徐々に海側に移行していったのです。
百舌鳥地区を拠点とした萬代屋もそういった神人商人の一人であり、寺社勢力特に住吉大社・開口神社との繋がりを背景に莫大な経済力を発揮していたのです。
石山本願寺といい、堺といい、謎に包まれた部分が非常に多いのですが、これは、為政者(足利氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川氏)によって、自分の都合の良い歴史を書き残しているせいだと私は考えています。
藤原氏が土師氏の歴史を封じ込めてしまったのと同じように・・・
それを前提としないと、後に書く、
萬代屋宗安をめぐる様々な歴史も解き明かせないと想ってます。
仁左衛門のあたりは非常に興味深い時代なんですが、細かいことは後々追記していくことにして、今日はこのへんで・・・